第66話 名家の朝

投稿日 2024.02.20 更新日 2024.02.20

 静寂に包まれた朝だった⋯⋯

 ネクタイを締めながら、回廊を悠々と歩く男がいた。

「倫太郎ぼっちゃん!」

「ああ、すまない」

 鞄を女中から受け取る。

 男の名は、黒川倫太郎⋯⋯厚生労働省のキャリア官僚である。30歳の若さで本省の課長となったエリートだ。

 ここは都心郊外の高級住宅街⋯時折、ししおどしの音が鳴り響く。

「玉さん、俺も今年でもう30歳だ。ぼっちゃんはかんべんしてくれ⋯⋯」

「ほんと、あんなに小さくて可愛らしい男の子がもうこんなに大きくなって!」

「玉さんには本当にまいったな⋯⋯」

 とりあえず、豪邸の中を歩きながら、出勤の身支度をする。

 途中、別の女中から声をかけられる。

「倫太郎様!旦那様がリビングでお呼びです!」

「なんだよ、朝のクソ忙しい時に⋯すまない、玉さん」

 玉が再び、倫太郎の鞄を受け取る。

 そして、倫太郎がリビングへ向かうと⋯⋯窓の外を見つめながら、神妙な面持ちで佇む倫太郎の父がいた。

「親父!なんだよ。要件ならさっさと言ってくれ!」

「おお、すまない⋯いや、何な、ちょっと、出かける前に聞いてくれ」

 倫太郎は⋯⋯まずは、ソファに座るよう促された。倫太郎の父も、両手をひざの上を軽く叩くように下ろした。

「なぁ、倫太郎。もう、そろそろ⋯⋯嫁さん⋯⋯貰わんか?」

「えっ?」

 父の思わぬ発言に、頭が真っ白になる倫太郎⋯⋯

 聞けば、相手は大学で文学部長を務める人物の娘らしい。知り合いであったその大学の学長を仲介する形で、見合いの打診があったのだ。

「名前は文子さんと言うらしい。たいへん良いお嬢さんと聞く。美人だぞ」

「俺が見合い?」

「なぁ、解かってはいると思うが⋯⋯我が黒川家は、江戸時代から続く⋯それなりの由緒がある家だ。お前にも希望や好みはあるだろうが⋯⋯ちょっと、そこら辺の自覚と言うか、アレだ!なぁ、倫太郎!」

 まるで、出来レースでも走らされるような⋯⋯

 そんな嫌な予感がした。

 国会議員である父の意向は絶大だった。逆らえないこともなかったが⋯⋯

「ちょっと考えておくよ」

「おう!仕事、頑張れよ!」

 倫太郎の父は満面の笑みを浮かべる。