第66話 名家の朝
静寂に包まれた朝だった⋯⋯
ネクタイを締めながら、回廊を悠々と歩く男がいた。
「倫太郎ぼっちゃん!」
「ああ、すまない」
鞄を女中から受け取る。
男の名は、黒川倫太郎⋯⋯厚生労働省のキャリア官僚である。30歳の若さで本省の課長となったエリートだ。
ここは都心郊外の高級住宅街⋯時折、ししおどしの音が鳴り響く。
「玉さん、俺も今年でもう30歳だ。ぼっちゃんはかんべんしてくれ⋯⋯」
「ほんと、あんなに小さくて可愛らしい男の子がもうこんなに大きくなって!」
「玉さんには本当にまいったな⋯⋯」
とりあえず、豪邸の中を歩きながら、出勤の身支度をする。
途中、別の女中から声をかけられる。
「倫太郎様!旦那様がリビングでお呼びです!」
「なんだよ、朝のクソ忙しい時に⋯すまない、玉さん」
玉が再び、倫太郎の鞄を受け取る。
そして、倫太郎がリビングへ向かうと⋯⋯窓の外を見つめながら、神妙な面持ちで佇む倫太郎の父がいた。
「親父!なんだよ。要件ならさっさと言ってくれ!」
「おお、すまない⋯いや、何な、ちょっと、出かける前に聞いてくれ」
倫太郎は⋯⋯まずは、ソファに座るよう促された。倫太郎の父も、両手をひざの上を軽く叩くように下ろした。
「なぁ、倫太郎。もう、そろそろ⋯⋯嫁さん⋯⋯貰わんか?」
「えっ?」
父の思わぬ発言に、頭が真っ白になる倫太郎⋯⋯
聞けば、相手は大学で文学部長を務める人物の娘らしい。知り合いであったその大学の学長を仲介する形で、見合いの打診があったのだ。
「名前は文子さんと言うらしい。たいへん良いお嬢さんと聞く。美人だぞ」
「俺が見合い?」
「なぁ、解かってはいると思うが⋯⋯我が黒川家は、江戸時代から続く⋯それなりの由緒がある家だ。お前にも希望や好みはあるだろうが⋯⋯ちょっと、そこら辺の自覚と言うか、アレだ!なぁ、倫太郎!」
まるで、出来レースでも走らされるような⋯⋯
そんな嫌な予感がした。
国会議員である父の意向は絶大だった。逆らえないこともなかったが⋯⋯
「ちょっと考えておくよ」
「おう!仕事、頑張れよ!」
倫太郎の父は満面の笑みを浮かべる。